火ぶり漁
ビール麦の穂が田んぼ一面を真っ黄色に染め、入梅前の日照りが続くと父、内藤智は
突然思い出したかのように「火ぶりにでも行くかぁー」と、少し早めの夕飯を食べながら、
独り言のように呟く。「待ってました」とばかりに、「うん、行こ行こ」と俺が答えると、
もうその晩の「火ぶり漁」は決定されていた。
直径二〇センチメートルくらいのキヌタモ、ガス灯、農作業に使う腰籠。たったこれだ
けの装備で、あのすばしっこい鮎を獲ろうというのが火ぶり漁だ。
キヌタモは極細い絹糸製で、ナイロン糸に比べ魚が絡みやすくできている。子どもの小
遣い程度で売られていて、当時はどこの店先にも置いてあった。タモの輪の部分が細い針
金でできていて、くねくねと自在に曲がるようになっている。硬いタモは鮎には不向きだ。
ガス灯は上部が水のタンク、下部が砕石のような形のカーバイトを入れるタンクの二階
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建て構造になっている。水のタンクには水滴調整ネジがあり、水滴がカーバイトに落ちる
と化学反応を起こして、アセチレンガスが発生する仕組みだ。火力を上げたい時は、水滴
を多くすれば瞬時に明るくなる優れものだ。しかし一時間も使っていると、カーバイトの
粕が溜まり、いくら水滴を多くしても効果がなくなってくる。一旦解体して粕を取り除く
と、再び火力が回復する。
このガス灯には決定的な長所がある。一回分のカーバイトで二〜三時間は使用できるが、
火が小さくなってからでもなかなか消えない。延々四〜五時間燃え続けるのだ。ボンベの
ように突然ガス切れ、真っ暗。そんな心配はまったくなしだ。
また、当時は百円ライターなどはなく、桃の絵の付いたマッチが全盛の頃で、なにかの
拍子でガス灯の火が消えると、だれ彼なく近くの人から火をもらった。マッチもサービス
品などはなく、お金を出して買っていた時代では、マッチ一本でも大切にしていたのだ。
互いにガス灯を傾けあい、火を貰う仕草は男女がキスをする仕草にそっくりだが、「すみ
ませーん、火お願いしまあーす」の一言でだれとでもキスができたこの時代の人は幸せだ
った。当時、火を断ることは普段、いくら仲が悪くても、多聞だったようで、このキスが
きっかけで新しく知り合いになったり、喧嘩の仲直りもできたりしたようだ。
この時期には河原のあちこちに、白いカーバイトの粕がよく目立っていて、これを火ぶ
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り漁の目安にすることもできた。
俺が小学校に上がるまでは、父は、ほとんど一人で行っていたようだが、小学校に上が
ってからは、火ぶり漁に出かける時は、必ず俺も同行するようになっていた。
六歳年上の兄はそれほど、魚獲りには興味がないようで、行っても行かなくてもどちら
でも良い、といった感じだった。それでもまだテレビもなく、祖父や祖母の何十回となく
聞いた同じような話を聞いているよりはマシと、火ぶり漁に同行することもあり、行けば
行ったで結構はまっていたようだ。
小学校に上がったばかりの俺を川へ連れていくのは足手まといにこそなれ、とても漁の
役に立つとは考えられなかった。それでも俺があまりに付いていきたがるのと、最初に火
ぶり漁に付いていった時とても大漁だったので、祖母は「ヨッチャが一緒やと、よおけと
れるで連れてったりゃあ」といつも応援してくれた。
周りのほとんどの人が俺のことを「ヨッチャ」と呼び、兄や年上の小中学生は「ヨッチ」、
父だけは「ヨシ」と呼んでいた。だから父が「ヨシ行くか?」と言うと、俺に訊いてるの
か、それとも掛け声を掛けて、自分で気合を入れているのか分からないこともあった。
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火ぶり漁のフィールドは、木曽三川の一番西を流れる揖斐川の支流「根尾川」である。
濃尾平野には東から木曽川、長良川、揖斐川が流れ、この三大河川とその無数の支流が、
たくさんの鮎の好漁場を生み出している。鮎は日本中どこにでもいるようだが、岐阜県は
鮎を県魚に指定し、尚且つ岐阜市中央卸売市場の近海魚の中心にいるのが鮎で、いかに鮎
が岐阜県に根づいた魚であるかが窺える。
根尾川は能郷白山、越山、屏風山などを源流にし、西谷川と東谷川が本巣市樽見で合流
する。この合流点から三二キロメートル下流の揖斐川との合流点までを、一般的に根尾川
と呼んでいる。西谷川や東谷川も根尾川には違いないが、略して西谷、東谷と呼ぶ漁師が
ほとんどだ。
樽見の平野部を除けば、ほとんどが山あいを縫うように川は流れ、樽見の合流点より二
〇キロメートル程下った本巣市山口で、山あいから一気に濃尾平野に開けていく。これよ
り下流は大田園地帯になり稲作栽培などのため、この根尾川の水が山口堰堤により、多く
の農業用水として取水されている。
山口堰堤はその農業用水の取水が目的で根尾川に設けられた、農業用堰堤で根尾川左岸
一帯の本巣市、右岸一帯の大野町の稲作を始め、柿、梨などの栽培用用水として大きく寄
与している。
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この山口堰堤は本川に水を堰き止める提と大きな水門を二機備えている。この水門の上
げ下げによって、用水の水量を調整しているのだ。以前は手動式で、一機の水門を全閉か
ら全開にするのに三〇分もかかり、相当な重労働だった。また、漁師の都合で勝手に水門
を上げ下げするので、今では電動になっていて、近所の水門番が管理している。
特に五月から八月にかけては用水の需要が高まり、また、梅雨時の集中豪雨、台風など
も絡んで、この水門がかなりの頻度で開け閉めされる。もちろん天気が続けば水門は閉め
られ、大雨なら開けられる訳だが、この水門の開け閉めがここから下流七キロメートルほ
どの間の漁場に、多大の恵みを与えてくれるのだ。
入梅前の五月から六月がこの地方の田植えシーズンで用水路には多くの水が必要になっ
てくる。水門は徐々に閉められ、これより下流の根尾川の水は、どんどん細くなる。全閉
の時は幅一メートルの魚道の流れを残すだけになる。当然下流は渇水状態に陥り、水溜り
に。そして最後には完全に干上がるのだ。山口堰堤の下流三キロメートルあたりの大野橋
から、七キロメートル下流の海老堰堤の間は、ほとんど毎年何度か干上がる。雨が降った
り日照りが続いたりで、滔々と流れたり干上がったりを一夏に二,三回繰り返す。
不思議なことは完全に干上がった場所でも、一度水が通ると降って湧いたように鮎を始
めいろいろな魚が干上がる以前と同じようにいるのだ。魚は空から降ってはこないし、も
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ちろん湧くはずもない。つまり上流からか、下流からしか来る道がないのだ。上流からと
下流からで漁師たちの意見が分かれ、最後は喧嘩にまでなってしまうのも、この川ならで
はのことかもしれない。
このところ日照り続きで、山口の水門もほとんど全閉のようだ。いよいよ我が家の東の
河原が干上がるのも時間の問題だ。父の「ヨシいくかあー」の合図で、いよいよ火ぶり漁
に出発だ。我が家には内燃機関の乗り物はなにもないから、当然のことながら河原までの
五〇〇メートルは徒歩となる。
川はもうほとんど流れは止まり、大きな水溜まり状態になっていた。流域面積は普段の
五分の一ほどになっていて、岸辺をガス灯で照らしながら歩くと、明かりに驚いて逃げだ
す鮎がいくつも見えた。
キヌタモだけで鮎を獲ることはそうそう容易くない。
ガス灯の光は、真ん中一メートル円くらいが特に明るく、その外側がほの暗いエリアに
なっている。夜の鮎は、石の隙間に身をかがめているので、脅かさないように外側のほの
暗い明かりで鮎を見つけ、キヌタモを真上から直角に被せるのだ。後は鮎がびっくりして、
キヌタモの一番奥に来た時を見逃さず、キヌタモを反転して水面の上に出してしまえばOk。
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「はい、鮎ゲット」
鮎を見つけてからの成功率は一〜二割といったところか。
「おっ、うなぎや、うなぎやー」の兄の声に緊張が走った。二〇センチメートルのキヌタ
モで救えるはずもなく、それでもなんとかしようと、兄も父も必死だった。夜のウナギの
動きは結構速くすばしっこい。しかし、直径五〇センチメートルほどの平たい石の下に隠
れるウナギを俺はしっかり見ていた。父がその石目掛け、別の同じくらいの石を投げつけ
た。
「石打漁法」
「ガチン」の音と共に白い腹を上にしてウナギは失神。
「はい、ウナギゲット」
ウナギの蒲焼はすでに我が掌中にあり。
その日は、ことのほか鮎も豊漁でウナギのおまけ付。
「そろそろかえりましょ」
豊漁とはいっても、所詮キヌタモ片手の漁。二〇匹も獲れれば大漁中の大漁。カーバイ
ト代と労力を計算したら、とても馬鹿らしくてやれない。そもそも採算性など考えるくら
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いなら、鮎漁など初めからまったくしない方がいいのだ。
腰籠をさげた兄の足下で、「ドボン」と、なにかが水に落ちた音がした。父の持つガス
灯が、まっしぐらに深場へ泳いでゆくウナギを捉えたが、こうなっては正に後の祭りだ。
「アーア」とだれともなくため息をついた。
帰り道、ガス灯の火は、ほんの足元しか照らさないくらい小さくなり、それでも時々、
「ごそっ、ごそっ」と振ってみると一瞬明るくなり、すぐに小さくなってしまった。
「お父ちゃん、あのウナギもったいなかったね」
俺が言うと、父はガス灯を「ごそっ」と一回振っただけで、なにも答えなかった。
我が家には一年に一、二度、留吉という名の行商人が来ていた。なんでもこの近所に若
い頃奉公に来ていて、祖父などは、「トメか、よお来た」と言って結構かわいがっていた
ようだ。
行商といってもほとんどが中古の花札とか装飾品とかで、子供目にはがらくたとしか映
らないものばかりだった。なにかひとつでも買わないと何時間でも帰らないので、母は留
吉のことはあからさまに嫌っていた。「また来た、ど嫌らしいー(鬱陶しい)」と聞こえよ
がしに言っていた。
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フウテンの寅さんの古代版のような留吉だったが、旅先でのいろいろな出来事を面白お
かしく話す「トメキッサ」が、俺は結構好きだった。俺は留吉のことを、祖父以外のみな
が呼ぶのと同じように、いつからともなくトメキッサと呼んで慕っていた。
ガラクタ行商人のトメキッサの商品で唯一(俺の知る限りだが)、素晴らしいものがあっ
た。「テーナ」だ。
立ちが四〇センチメートルほどで長さが一〇メートルくらい。細い絹糸でできている。
節と節の間の寸法が五分(一分は三ミリメートル)のいわゆる鮎漁用の刺し網だ。ひとつ
の網目は当然ひし形になっているから、全部の辺の合計は二〇分(二寸)、つまり胴回り
六センチメートルより少し大きめの鮎用の刺し網となる勘定だ。胴回り六センチメートル
といえば、全長で一五、六センチメートル前後の鮎の大きさがおおよその見当だ。
留吉の商品には、ほとんど興味を示さなかった父も、テーナはすっかり気に入ってしま
った。この界隈でも極僅かの漁師が使っていて、頗る鮎が獲れると聞いていたから尚更だ。
「今日はテーナを使っての火ぶりやあー」
父も兄も当然俺も、大漁の期待に胸は膨らむばかりだ。
留吉に教えられたように、鮎のいそうなところの少し上流にテーナを張っておき、二〇
メートルほど下流からガス灯を振りながら「おいあげる」のだ。もともと火ぶり漁の語源
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はここにあって、キヌタモで獲る場合は火は振らないから、本当は火ぶり漁ではない。テ
ーナの語源も俺は手投げ網が訛ったものだと思っているが、投げることが出来ない長い網
でもテーナなのだ。でも漁師にとっては、意味さえ通じればそんなことはどうでもいいの
だ。
テーナは網の目に鮎が首を突っ込んだ状態にして獲る漁だ。そのため、鮎の大きさが網
の目に合わないとさっぱり掛からない。その日は期待を大きく裏切られ、惨敗だった。そ
もそも鮎を獲ったことのない留吉の指導の下の漁自体、相当無理のある話だ。後から分か
ったことだがテーナ漁は上流から下流へおい下げて獲る漁法だったのだ。
それでもその後、火ぶりに行く時は必ずそのテーナは持参していたのだった。
火ぶり漁に行った時、まだかなり大きな河原の水溜まりも日に日に小さくなり、最後は
池ほどになって干上がっていく。こうなると野良仕事がいくら忙しくても村中総出で魚つ
かましだ。普段、火ぶり漁に行かない人や女子供まで総出だ。キヌタモすら持ってない人
がほとんどで、ミジョウケ(クサミ)とバケツを両手に提げての出陣だ。火ぶり漁は採算
性には極めて乏しいが、こちらはその点では完璧。
漁の方法は実に古典的で、水溜まりの思い思いの場所に、石で一平方メートルほどの囲
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いを作る。囲いは魚が通れるくらいの隙間を持たせ、完璧な堤防にしては不可。囲いの中
の石や砂利を取り除きながら掘り下げる。囲いの外側より二〇センチメートルほど深くし
ておく。河原にあって、手で簡単に取れる、ねむの木、ヨモギなどを囲いの上にいっぱい
敷き詰めて、覆いを作ってでき上がり。
一番深い場所に作るのが有利だが、その分、石も労力も必要だ。子どもは作業が簡単な
浅い場所を選んで作ったものだ。それでも魚は十分過ぎるくらいよく獲れた。各自の囲い
はそれぞれのテリトリーで、魚以外の侵入者はいない。後は水が完全に干上がるのを待つ
だけだ。中の様子が気になって覗きたくなるのが人情だが、ここはじっと我慢、我慢。下
手に脅かすとほかのテリトリーへ大移動してしまうからだ。待ち時間はバラバラで短くて
半日、長くて一日。しかし待つ間に雨が降り出し、水が増えてきたら万事窮す。
諦めきれない人が水溜りに農薬を撒いたことがあった。苦しみもがく魚たちは、岸にう
ちあがり、だれでも簡単に拾うことができた。しかし、その後がいけない。実行犯は駆け
つけた警察官に逮捕。散々、絞られた挙句、多額の罰金。今でも毒を利用したり、電気を
使った漁は重罪で罰金五〇万円に懲役刑もある。
水溜りも各テリトリーを残すだけになり、いよいよその日、一番の至福の時が訪れる。
なんといっても広大な川の魚が、すべてこのテリトリーの中に納まっているのだから、魚
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の量も半端ではない。
覆いをひとつひとつ除いていくと、
「いました。いました。いました」
鮎やうぐい、どじょう、ちんちこ、はえ、にごい、砂くじ、そしてあのウナギもいまし
た。
「ヨシー、容れもんが足らんで、うちでもうひとつバケツ取ってってくれー」
父が大声で言った。
「お父ちゃん、今日は嬉しそうやなぁ」
独り言を言いながら、俺は家路を急いだ。この日は、大たらいに満タンいっぱいの大漁。
火ぶり漁の比ではなかった。
普通、鮎といえば塩焼きが定番なのだが、なぜか当時は、鮎を焼いて食べる習慣はほと
んどなかった。すべて醤油とミツゲン(チクロ)で煮て食べていた。
ミツゲンは人工甘味料で砂糖が高価だったため砂糖の代用をしていた。白いバファリン
ほどの錠剤で直接舐めると苦かった。終戦後の貧しい農家では大変重宝したが、発ガン性
があることが分かり、後に販売も禁止されている。父はその後に胃ガンで他界したが、
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「お父ちゃん、ミツゲンが原因やったんかなぁ?」と何度も思った。
父は「川は危険がいっぱい」なので、一人で川へ行くことには、あまり賛成ではなかっ
た。それでも鮎を持って帰ると祖母や祖父と一緒になって褒めて喜んでくれた。父に褒め
られた事はこれと野良仕事を手伝った時以外、なにもない。
俺は勉強は大嫌いだったが、意外に成績だけは良い方だった。しかし父は、テストの点
がいくら良くても、通知表に五が並んでいてもなにも言わない。四年生の後期、初めて学
級委員長に選ばれた時も、「級長くらい俺でもやったわ」と言っただけだった。
そんな父だから家では勉強などしなくても、まったく問題なく、家で教科書を開くこと
などまったくなかった。「夏の友」などは半分以上、白紙で出した。それでも先生には、
あまり叱られることはなかった。先生は白っぽい夏の友より、真っ黒に日焼けした俺の顔
を見て、「どうすると、そんなに黒くなれるの?」と言って笑っていた。
高校卒業までの夏休みは、毎日、朝から晩まで根尾川の河原で遊んでいた。河原が俺に
とって、最も居心地のいい、幸せな場所だった。特に高校の夏休みは、同級生は材木屋や
工場などで汗だくでアルバイトをしていたが、俺は鮎釣りがアルバイトだった。高校生の
日当が八〇〇円くらいが相場の頃、いい日には三〇〇〇円くらいになった。暑ければ川で
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泳ぎ、疲れれば休んでも、だれも文句は言わない。なんといっても好きなことをしていて
金儲けになるから、言うことなしだ。
豊漁が続き、鮎釣りで儲けた金で、母に自転車を買ってやったこともあったくらいだ。
しかし、楽しい夏休みが終わると、その反動で二学期がとても辛く、冬休みまでの四カ
月をどうして生きていこうかと、真剣に悩んだものだ。夏休みと二学期は俺にとって天国
と地獄ほどの違いがあった。
九月下旬になると、一町分(一ヘクタール)もある田んぼの稲の採り入れ作業が始まる。
一日でできる脱穀作業は精々二反(二〇アール)止まりで、毎週、週末に合わせて稲刈り、
稲束ね、乾燥、脱穀をすべて、手作業で行っていた。どこの農家も「猫の手も借りたい」
くらいの忙しさで、当時、小学生になったらこれらの手伝いは極めて当然のことだった。
特に、一株一株のこぎり鎌で稲を刈り取る、稲刈り作業は苦痛を極めた。まして、無報酬
で手伝う俺たちにとっては、地獄以外のなにものでもなかった。
一一月初旬まで稲の採り入れ作業は続き、休む間もなく、玉葱の植え付け作業が待って
いる。俺の家では多い時には八反を作付けていて、苗を一本一本植えつけていく作業は気
が遠くなるほど延々と雪が降る頃まで続いた。この頃から、俺は大きくなったら漁師にな
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ることはあっても、「農業だけは絶対にやらない」と硬く心に誓っていた。
農作業の辛さが原因ではないと思うが、俺は小学校二年生の頃から、秋になったら決ま
って恋をしていた。
当時の小学校の机は二人一組になっていて、男女でワンセットが普通だった。新婚ほや
ほやの女教師だった担任の高木先生が、今考えても感心するくらい、「粋な計らい」をし
たことがある。アンケート用紙を配り、「自分のとなりに座ってほしい人を書きなさい」
というものだった。
俺は兼ねてから憧れていた、「あけみちゃん」を迷わず指名した。あけみちゃんは同じ
片田舎の中でも、小さな商店街育ちでいろいろなことをよく知っていた。裏を返せば、俺
が知らないことが多すぎて、おぼこかっただけかも知れない。
アンケートの日から年度末まで、席替えは毎月行っていた。ほかの机は結構入れ替わり
があったが、俺とあけみちゃんはずうっと隣同士だった。女房みたいになにかと世話をし
てくれていた。俺がなにか小さな失敗をすると眉間に皺を作って、「もう、ヨシジ君たら
しっかりしないとダメじゃないぃ」と、大人びた口調で、でも決して真から怒る訳でもな
く、諭すように話すあけみちゃんは、姉さん女房そのものだった。
小学校や中学校の女子は俺のことはみんなが「ヨシジ君」と呼んでいたが、俺自身は
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「内藤君」と呼ばれる方が本当は好きだった。だけど「内藤君」は他にキミオ君、マサト
君、ヒロユキ君などいっぱいで紛らわしいので下の名でみんな呼ばれていた。今、考えて
みると、あのアンケートであけみちゃんを指名したのは「俺だけだったんだなぁ」と、ふ
と、どうでもいいようなことを思ってしまう。
その後も、学年が変わって、クラス替えがある度に新型に乗り換え、恋をしていた。ひ
とみちゃん、じゅんちゃん、さほちゃん、けいこさん。全部片思いだが、幼いながらに胸
がちくちく痛んだこともあった。
片思いは実に便利なもので、こちらの勝手でだれでも好きになれる。俺の片思いは同級
生と平行して芸能界にも進出していった。吉永小百合が当時一番人気だったようだが、俺
はなんといっても栗原小巻に決めていた。
竹脇無我との共演ドラマ、「二人の世界」にはまり込んでいたせいもある。通勤電車の
中で偶然何回か顔を合わす二人がいつしか恋に落ちていく、といった超単純なストーリー
だったが、日本全体がおぼこかった当時はそれで十分だった。主題歌は、あおい輝彦。後
に「人生楽ありゃ苦もあるさ・・」でお馴染みの水戸黄門の主題歌も歌ったが、この程度
の歌唱力で歌手になれた平和な時代でもあったのだ。
同級生にしても芸能界にしても俺の片思いはいつも真剣で、俺との結婚後の彼女のエプ
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ロン姿にまで想像の範疇は広がっていた。結ばれる可能性は皆無に近いことは十分過ぎる
くらい認識していたが、それでもひょっとして、と叶わぬ恋に胸を焦がしていた時もあっ
た。
今でも、秋になって田んぼで藁や籾殻を焼く煙の匂いがすると、あたかも条件反射のよ
うに左胸を爪楊枝で刺したようにチクンと痛かったりもする。
結果としては夏の間も秋にしても、よくよく考えてみれば俺は、極めて幸せな少年期を
送っていた訳だ。そのせいも手伝ってか、自分の息子一人、娘一人には期待こそすれ、勉
強を強要したことなど、まったくなかった。おかげで、彼らも幸せな少年期を送ったこと
になる。ただ、あまりに自由奔放に育てたせいで、時々とんでもないことを言いだす。
9・11同時多発テロ後で超危険な「アメリカへ留学したい」という長男。なんとか、
カナダならOKと、GOサインを出したのはいいが、三カ月でアメリカへ一人旅。
一年経って帰ってくると、今度はインドシナ海に浮かぶ、聞いたこともない島へ、一人
で「ダイビングに行く」と出かけて、突然音信不通。母親が真っ青になり、あちこちの航
空会社やクレジット会社に問い合わせても、消息不明。三日三晩、不眠で泣き明かした。
「そのうち、帰ってくるに」
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と俺がどれだけ言っても、ただただ首を振り、
「いいえ、連絡が取れない、ということは絶対考えられないことよ」
と言って泣くばかりだった。俺は過去三〇年間の彼女との付き合いの中で、あれほど沈
んだ妻の顔を見たことがなかった。
「今、名古屋空港に着いたでー」
と彼から電話があった頃には、妻はもうほとんど以前の面影はなく、やつれ果てていた。
なんでも、電話の通じない島でダイビングをしていたということだった。
一方の長女には、もっと驚かされた。当時、岐阜の鶯谷高校の音楽科声楽コースに通っ
ていたが、二年生の後半、「お父さん、私今度、宝塚受けるで」と突然言いだした。
少々のことでは怖気ない俺も、流石にこれには度肝を抜かれた。半分は冗談だと思いつ
つも、心配顔の俺を尻目に、バレエの個人レッスンに通い始めた。受験項目に、声楽、ピ
アノ、そしてバレエ、プラスアルファで母親の面接試験もあるという。なんで母親が関係
あるのか知らないが。
「頼むから、考え直してくれ。そんなとこ行ったら、金がいくらあっても、足らへんわぁ」
妻も長女も完全にその気で、「とんでもないことになったなあ」と頭を抱えていた。
受験料は三万円と意外に安い。宝塚音楽学校は「西の東大」と言われているが、東大と
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は比べるに値しないほど、金が掛かると聞いている。
「ほんにとんでもないことになったなぁ」
しかし、取り越し苦労とはよく言ったものだ。四〇人の枠に八〇〇人の受験生、つまり
二〇人に一人の合格。しかも、子供の頃から、宝塚を目指し、英才教育を積んだ天才的少
女ばかりに交じって、にわか仕込の田舎者など、最初から合格率ゼロパーセントなのだ。
そもそも、書類審査が通っただけでも奇跡だった。
結局、最後は東京音楽大学に収まった。ここでもかなりの出費で痛いが、「まあ、宝塚
よりマシか」と諦めている。
たしか子供の教育標語に、「褒めて伸ばそう」と、あったような気がする。俺は正にそ
れを地でいって鮎の漁師になってしまったが、長女は小学校の時、先生に音楽を褒められ
たようだった。子供の褒め方の難しさをつくづく知らされる思いだった。
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